大判例

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東京高等裁判所 昭和45年(ラ)197号 決定

抗告人

神近市子

代理人

安倍治夫

戒能通孝

相手方

有限会社 現代映画社

代表者

吉田喜重

代理人

田中治彦

環昌一

西迪雄

田中和彦

相手方

株式会社 アート・シァター・ギルド

代表者

井関種雄

相手方

東宝株式会社

代表者

松岡辰郎

相手方

三和興業株式会社

代表者

井関種雄

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

本件抗告の趣旨及び理由は、別紙(一)及び(二)記載のとおりである。

一本件仮処分申請の要旨は、相手方有限会社現代映画社(以下単に現代映画社という)の製作にかかる映画「エロス+虐殺」(以下単に本件映画という)の公開上映によつて、抗告人は現に違法にその人格的利益(特に名誉権及びプライヴァシー権)を侵害され、かつ、将来もこれを侵害される虞があるので、右侵害を排除し、予防するため、本件映画の公開上映の差止め(禁止)を求める、というのである。

現行法は人格的利益の侵害に対する救済として、損害賠償ないし原状回復を認めることを原則とするけれども、人格的利益を侵害された被害者は、また、加害者に対して、現に行なわれている侵害行為の排除を求め、或は将来生ずべき侵害の予防を求める請求権を有するものというべきである。しかし、人格的利益の侵害が、小説、演劇、映画等によつてなされたとされる場合には、個人の尊厳及び幸福追求の権利の保護と表現の自由(特に言論の自由)の保障との関係に鑑み、いかなる場合に右請求権を認むべきかについて慎重な考慮を要するところである。そうして、一般的には、右請求権の存否は、具体的事案について、被害者が排除ないし予防の措置がなされないままで放置されることによつて蒙る不利益の態様、程度と、侵害者が右の措置によつてその活動の自由を制約されることによつて受ける不利益のそれとを比較衡量して決すべきである。

二そこで、このような見地に立つて、本件において、果して抗告人に右の請求権を認めることができるか否かについて判断する。

本件に現れた疎明により当裁判所が認定した、(ア)抗告人の経歴に関する事実、(イ)相手方現代映画社が申請外吉田喜重の監督の下に本件映画を製作し、これを公開上映するまでの経緯に関する事実、ならびに、(ウ)本件映画の製作の意図及びその内容に関する事実は、原決定六丁表末行冒頭から同丁裏二行目末尾までを、「しているほか、抗告人は福四万館等において大杉栄に対し打算的言辞を弄したものとして描かれ、結局抗告人は大杉栄と恋愛関係における敗北者として伊藤野枝とは対照的に描出されている。」とあらためるほかは、原決定の認定説示と同一であるから、当該部分(原決定三丁裏八行目から七丁表四行目まで)を引用する。

右認定の事実によれば、本件映画の中心的素材とされている大杉栄をめぐる抗告人、伊藤野枝らの恋愛的葛藤、及び、いわゆる日蔭茶屋事件は、前記著書等(そのうちには抗告人の著述にかかるものもある)に記載されており、右は主として昭和三〇年頃から昭和四〇年頃にかけて刊行された一般的著作物であるから、右事実は現在においても世上公知のものであるといつて差支えない。しかも、疎明によれば、抗告人は昭和四〇年三月刊行の「私の履歴書第二三集」においても右事件等の概要を記述していることも認められる。一方、右認定の事実によつても、右吉田及び相手方現代映画社が、徒らに抗告人の公開を欲しない私事を暴露し、かつ、事実を歪曲誇張することによつて、大衆の単なる好奇心に媚びようといつたような低劣不当な意図のもとに本件映画を監督製作したとは認められないばかりでなく、本件映画自体も右の如きていのものであるということもできない。

右の次第であつてみれば、本件映画の公開上映によつて、当然に抗告人がその名誉、プライヴァシー等人格的利益を侵害されるとは、たやすく断じ得ないから、現在抗告人に、本件映画の公開上映を差止めなければならない程度にさしせまつた、しかも回復不可能な重大な損害が生じているものと認めることはできない。従つて、本件において抗告人が第一項記載の請求権を有するものと認めることは困難である。

三叙上のとおりであるから、結局抗告人の本件仮処分申請は、被保全権利について疎明がないことに帰着し、しかも、本件において保証を以てこれが疎明にかえることは相当と認められないから、右申請は更に立入つて判断するまでもなく、理由がないものと言わざるを得ない。

してみれば、右申請を却下した原決定は結局相当であつて、本件抗告は理由がないからこれを棄却すべく、なお、抗告費用は敗訴の抗告人の負担として、主文のとおり決定する。(岡部行男 川上泉 大石忠生)

別紙(一) (抗告人の求める仮処分決定内容)

債務者有限会社現代映画社および同株式会社日本アート・シアター・ギルドは有限会社現代映画社製作にかかる映画「エロス+虐殺」のフィルム(以下「本件映画フィルム」という)を、不特定または多数の者に観覧させるためにみずから上映し、または第三者をして上映させ、または第三者に売却、引渡、賃貸、譲渡、頒布、その他一切の処分をしてはならない。

債務者株式会社日本アート・シアター・ギルドは、本件映画フィルムを上映または配給することを目的として、第三者と契約してはならない。

債務者東宝株式会社は、東京都千代用区有楽町二の一アート・シアター日劇文化その他同債務者の経営する映画館において、本件映画フィルムを上映してはならない。

債務者三和興行株式会社は、東京都新宿区新宿三の二一アート・シアター新宿文化その他同債務者の経営する映画館において本件映画フィルムを上映してはならない。

(抗告人の申請理由の敷衍)

一、原決定は、個人の人格権の尊厳、ひいてはその保護の重要性に対する、理解と洞察とを著しく欠いているとともに、憲法上の表現の自由との関連における、人格権(名誉権プライバシー権、肖像権等)の憲法上の評価ないし位置づけについて重大な誤まりを犯しているので、とうてい取消をまぬがれない。以下逐次項目をわけて法律上、事実上の争点について要旨をのべる。

二、原決定には名誉権とプライバシー権とを混同し、プライバシー権侵害の不存在に対する論理を、そのまま名誉権にあてはめようとした誤謬がある。抗告人は本件申請の理由として名誉権侵害のおそれを主たる理由とし、プライバシー権侵害を従たる理由として主張しているのにかかわらず、原決定は、世論の本件に対する過つた反応にまどわされてか、もつぱらプライバシーに力点をそそいで判断し、人格権の本質と特殊性とを見失なつている。

三、人格権の侵害は、その本質上非公知性ないし非開示性を要件としない。原決定は、「日蔭茶屋事件が前記のように公知の事実であり、債権者自身もその概要を告白している以上、遠い過去の不名誉な履歴を摘示して債権者の社会的評価を一般的に低下させるとの債権者の主張は当らない」と判示しているが、人格権の侵害は本来、その公知性ないし自発的開示とは関係なく成立するものであるからこの判断は誤つている。たとえばある有名思想家の身体障害性があまねく知れわたつているとしても、その事実をことさらに具体的に摘示し、マス・メデイアにのせて報道することは名誉権の侵害となるであろう。

四、抗告人は原審において、前科開示による名誉侵害の成立を強調しているが、原判決は何故か、不当にもこの点を看過し、判断を逸脱している。傷害事件ないし殺人未遂事件の前科およびこれによる投獄の事実は、社会通念上不名誉な前歴とされている。この映画は、このような前歴事実を、具体的印象的に描写摘示することにより、公然不名誉な履歴を摘示して、債権者の名誉を傷けている。しかもこの前歴は当時贖罪をなしおえた罪に関するものであり、社会的には忘却のベールにつつまれ、法律的には抹消ずみのものである。この点において、刑法第三四条の二が刑の執行を終り、十年を経過した者について「前科抹消」を定め、また市町村長が前歴照会に対して、常に「前科の記載なし」と回答すべき取扱いを定めるなど、近代国家は、常に不名誉な前歴の秘匿に協力し、前歴者の更生に関心と思いやりをそそいでいる事実に思いをいたすべきである。

五、原決定は「プライバシーの侵害の違法性も表現の自由との比較衡量ないし価値選択の問題である」として、表現の自由の価値と人格権の価値とを直接同一平面において衝量しようとしているが、これは、憲法における基本的人権の相関的位置づけを誤つたものである。基本的人権の歴史的発達過程にてらせば、表現の自由に対置すべきものは直接には国家権力ないし社会的圧力であり、人格権に対置すべきものは公共の福祉(憲法第一三条)でなければならない。

六、もしも、人格権を直接芸術的表現の自由と対立させるならば、芸術の名において、名誉やプライバシーをどのようにふみにじつてもかまわないという不合理な結果を生じかねないし、また名誉毀損罪の規定(刑法第二三〇条)の如きも憲法違反の立法といわざるをえないことになろう。

七、人格権と公共の福祉とを対置させる限り、個人はその尊厳なる人格権を、公共の福祉に牴触しない限り、無限に主張し追求する権利を有するはずである。芸術的表現が人格権との対比において後者の制約を主張しうるのは芸術的表現の価値ないし必要性が、公共の福祉の維持や文化の伝承のため必要不可能な程度にまで高められた場合に限られる。

八、芸術的表現の必要性が、個人の人格権の制約ないし侵害を正当化する場合はありうる。しかしながらそれは芸術の内容が、平均人の荘厳な感動を呼びおこすほどの偉大さに達し、かつそこに織込まれた侵害的描写が、芸術性と内面的必然性を主張しうる場合に限られる。英国において、わいせつ性との関連性において「チヤタレイ夫人の恋人」が違法性を有しないとされたのは、その作品が極度に偉大であり、かつそこに含まれた十三ケ所の問題描写が芸術的必然性を有し、その一コマすらこれを切り除くならば、作品の価値を本質的に傷ける程度にまで密接不可分のものであるからである。ひるがえつて本件映画について見るに、作者の真摯な主観的芸術意図はこれを認めるにやぶさかでないとしても、この映画が平均的観客大衆の胸に荘厳な感動を呼びおこすほどに偉大な芸術性を有するかは疑わしいし、また、あの二十分余にわたる、えんえんたる刃傷場面の描写や、「逸子」が「魂だつて(金)で買える」とうそぶく場面などは、その一コマでも切り取れば、この映画の価値が本質的に破壊されるほどの芸術的必然性をもつているとは考えられない。

九、原決定は「製作者の意図」をしきりに強調するようであるが、名誉権の観客的侵害の可能性を判別する場合には、作者の意図は参考とすべき一つの要素ではあつても、決定的なメルクマールとはならない。大切なのは、作者がどのように意図したか、ではなくして、表現された客観的媒体が、平均的観客大衆(特定の評論家やオリエンテーションを受けた特定の知識人ではない)の眼にどのように映り、また映るべきかの点にある。この映画の「エロス+虐殺」という好奇的題名から見ると、必ずしも知的には高度とはいえない一般的観客が、好奇心から刃傷場面に興味をいだき、作者の意図に反した受けとめ方をする可能性が大きい。

一〇、原決定は映画という媒体の特質に一応の考慮を払つているが、徹底を欠いている。抗告人は、いわゆる「日蔭茶屋事件」を公知の事実とは思わないが、かりにそうだとしても、開示された部分は要約され、圧縮された活字の上のストーリーにすぎないのであつて、視覚に訴える赤裸々かつ具体的な細部は依然として秘匿されて来たのである。抗告人は、この事件が歴史的評伝や、モデル小説や、思想史上の記述において冷静に、かつ科学的に論評されることに反対しているわけではない。自己の私生活の内面が克明(露骨)かつ具体的(誇張的)に「ドギツイ」映像のかたちをとつてリアルに不特定多数の観客の眼にさらされ、自己の私生活が一種の「なぐさみ」ものにされることを、人格の尊厳の名において拒否しようとしているのである。このような不愉快さを「受忍」せよという原決定の立場には全く承服できない。公人といえども、このような「受忍」義務がないことは、「宴のあと」の判決によつてもあきらかである。本件の場合は文学的表現ではなくて、映画の表現による人格侵害であるからなおさらである。

一一、原判決は「公刊資料による忠実な描写」という表現を用いて、日蔭茶屋事件の史実性ないし定説性を認めようとしているようである。なるほど、外形的「筋書き」としての同事件の実在性については、抗告人もある程度これを認めるにやぶさかではない。しかし本件において問題となるのは、その内面的意味づけ、ないしは解釈である。すなわち抗告人は、作者のインタープリテーションが、もつぱら対立としての大杉栄側の男性的エゴイズムによる身勝手な主張に依拠しており、抗告人の女性としての言い分が全く没却ないし歪曲されていることに怒を感じるものである。このような歴史的評価は、いかなる意味においても、史実ないし定説的伝承とはいえないし、もとより社会的共有財としての歴史的事実ともいいえない。

一二、原決定は、しきりに「日蔭茶屋事件」の公知性ないし周知性を強調するようであるが、この事件は、全証拠にてらし言葉の通常の意味において公知でも、周知でもない。「公知」とは、たとえば「明治三十七年頃日露戦争があつた」とか、「第二次大戦後に国民の生活が窮乏した」とかいう、立証を要しない程度の周知度を備えたものをいう。日蔭茶屋事件は一部の限られた文学評伝や思想評伝などで専門的に取上げられ、一部の人々には読まれた事実であつても、なお周知というには程遠く、当時は、喧伝されたとしても、今や社会の記憶からうすれ云つた遠い過去のエピソードにすぎない。現に当代理人のごときも、本件受任前は「日蔭茶屋」の名称すら知らず、この刃傷事件が東京市内に起きたと信じ込んでいたほどである。かりに一歩ゆずつて、本刃傷事件の外形的「概要」が周知であり、抗告人自身もそれを告白した事実があつたとしても、その内面的細部ないし深部に至つては、いかなる意味でも非開示のままであつたのであり、これを露骨な映像によつて曝露することは抗告人の同意がない限り何人にも許されないはずのものである。

一三、原決定には人格権(とくにプライバシー権および肖像権)の段階的放棄ないし段階的開示の原則(開示深度の法則)を無視した誤りがある。プライバシー権は一種の私生活肖像権ともいうべきもので、その開示ないし放棄には段階性が認められる。すなわち、私生活のある部面ないし平面を開示ないし放棄した者でも、なおもその深部については秘匿権を有するのであつて、かりそめにも一たびその一部を開示すれば、本人の意思にかかわらず全面開示を推定されるという性質のものではない。本件についていえば、なるほど抗告人は告白等によつて、「日蔭茶屋事件」の外形的筋書は自認し開示したであろうが、なおもそのデリケートな深部については、これを秘匿する権利を留保しており、すくなくともこれを映像のかたちで(活字のかたちならば格別)公表することには強く反対している。およそ私生活肖像権の放棄と留保とは個人の裁量に任せられているもので、国家といえどもその開示の受忍義務を強制すべきではない。しかるに原決定が本件の一部開示の事実をとらえ、全面開示の義務あるかの如くに判示せられているのは、「開示深度」の法則に対する理解を欠くものであり、とうてい承服できない。

一四、原決定は、生存者の名誉の保護が、死者の名誉の保護に対比して、とくに手厚くなければならないという点に対する認識を欠いている。刑法第二三〇条第二項は「死者ノ名誉ヲ毀損シタル者ハ誣罔ニ出ツルニ非サレハ之ヲ罰セス」と規定しているが、これは裏をかえせば、生存者の名誉は、たとえ真実の摘示によつても侵害されるという、近代国家の立法態度を表明したものである。抗告人の死後において、その私生活が社会共有財的伝承と見なされ、戯作の対象となることについては、抗告人としていささかの異議をとなえるものではないが、ねがわくば、その生前においては、その私生活の内面については、これをあばき立てないでいただきたいものである。日蔭茶屋事件は半世紀前の出来事であり、その際の心の傷口はかたく癒着している。いまさらその傷をおし開き、赤い傷口を公衆の前に露わにして見せる権利が、何人にあるだろうか。

一四、本件映画は、すでに東京都内その他の三映画館において公開されている。従つて抗告審において、いわゆる「事前押止め」を求める利益ないし必要性は喪失した。しかし、本件映画フィルムは、刻々続映され、人格権侵害の急迫かつ狂暴なる危険性は依然として現存している。もとより抗告人は別個に本案訴訟による事後救済(損害賠償の請求)および続映禁止を求めるべく準備中であるが、好奇心にもえた観客大衆が堵列をなして映画館につめかけている現状のもとでは、かりに将来本案訴訟に勝訴しても、それ以前に抗告人の人格権は回復しがたい侵害を受けることは必定であるから、とりあえず、本抗告により原決定の取消と続映禁止の仮処分を求めるのである。

一五、続映禁止の必要性は、次の三つの態様の権利侵害の蓋然性を予想している。

(一) 債権者現代映画社および同アート・シアター・ギルドが、手持ちの、もしくは新たなプリントにより、(イ)みずから試写場などを借りて上映する場合、(ロ)新たな配給契約にもとずき第三者に対し新たに上映を許す契約を結ぶ場合。

(二) 同一映画館による現在の上映契約による続映。

一六、表現の自由にかかわる裁判には慎重を要することは言うまでもない。しかし慎重は怯懦の代名詞であつてはならない。裁判所は、マスコミの暴力の前におののく、一女性の人格権の侵害を防ぐにあたつて勇気と果断を示さなければならない。もしも本件のような事実において、人格権の侵害が認められないという判例が確立したならば、マスコミおよびペンの狂暴はとどまるところを知らず、個人の私生活の内部を土足でふみにじる事象は日常茶飯事となりかねない。抗告人は今や、その絢爛多彩な公的生活をしりのぞき、文筆と読書三昧の生活に沈潜しつつ、憲法の保障する平穏で文化的な隠棲生活に入ろうとしている。賢明なる裁判官各位におかれては、何とぞ病弱なる一老婦人としての抗告人の切実なる哀訴に耳をかたむけられ、その人格の尊厳を全うせしめるため、迅速かつ適切なる御措置をとられたいのである。 以上

別紙(二)  抗告理由補充書

一、抗告人(債権者)は、本件における被保全権利として、第一次的には、典型的人格権の一種としての「名誉権」ないし「プライバシー権」を主張する。しかし、歴史的に形成されたこれら典型的人格権には、それぞれ迂余曲折を経て形成された要件(たとえばプライバシーについては「非公知性」など)が必要とされ、本件の具体的事実関係にてらし、その成立について疑問を生ずる場合もありうる。よつて抗告人としては、万一にも典型的人格権としての「名誉権」ないし「プライバシー権」の成立が否定される場合に備えて、予備的補充的に、一種の非典型人格権としての「更生した一市民が過去の不快な私的経歴をあばかれずに平穏な私生活を送る権利」を被保全権利として主張するものである。この権利は、「幸福追求権」の一種であり、その法的根拠を憲法第一三条における「個人として尊重される権利」ないし「自由及び幸福追求の権利」に求めることができる。この権利は厳密にはプライバシー権そのものではないが、これと近縁性を有し、いわば「準プライバシー権」ないし「亜プライバシー権」とも呼ぶべきものである。右のような「幸福追求権」を保護に価する人格権の一種として認めた判例はわが国には見当らないが、プライバシー法制の母法ともいうべき、アメリカのプライバシー判例法の初期の先例中にはこれを正面より認めたものがある。

たとえば、カルフォルニャ州におけるプライバシー判例法の礎石をきずいたといわれるメルヴイン事件(一九三一)がそれである。この事件において、上訴人は、かつて売春婦であつて、ある殺人事件の容疑で審理されたことがあつたが、その事件で無罪の判決をうけたのち、醜業をやめ、結婚生活にはいつた。それ以後は、模範的な貞淑な主婦としての生活をいとなみ、社交界でもかなりの地位を占め、以前の経歴を知らない知人と交際していた。結婚後六年(事件後八年)も経た一九二五年に、被上訴人は、上訴人の同意なしに「赤いキモノ」と題する映画を製作し、多くの地方の映画館で上映した。この映画は、上訴人の過去の生活の事実を映画化したものであり、その結婚前の実名が用いられ、さらに被上訴人は、映画の内容が実話であることを呼びものにし、そのように宣伝した。上訴人は、この映画の製作と上映によつて、他人に知られたくない過去の経歴が知人たちに知られることになり、彼らの侮辱と嘲笑をうけ、その結果、身体的のみならず精神的にも大きな苦痛をうけたと主張し、プライヴアシイの権利の侵害等を理由として提訴した。被上訴人はコモンロー上のコーズ・オブ・アクションが適法に陳述されていない旨の妨訴抗弁を提出し、第一審裁判所がこれを容れて、上訴人を敗訴せしめたのち、本件は上訴人の上訴によつて加州最高裁判所に係属した。同最高裁は、典型的プライバシー権の主張をそのまま認めることを躊躇しながらもその亜型としての幸福追求権を認め、次のように判示して、原裁判を破棄して上訴人の請求を認めた。〔二九七P・九一(一九三一)〕「わが州の基本法は、他人により不当に侵害されることなく安全と幸福とを追求し獲得する権利を、われわれが認めることを許す諸規定を含む。」

「『赤いキモノ』の製作される八年前に、上訴人が醜業をすてて更生し、社会の尊敬すべき成員としての地位を占めるに至つたことを終局的に認めざるをえない。このような変化が彼女の生活に生じた以上、彼女はその定評と声望とをその過去の頽廃の物語の公表によつて傷けられることなく、その道を歩みつづけることを許さるべきはずであつた。」

「上訴人が更生したのに、その過去の生活における不快なできごとを、被上訴人らが公表、あまつさえ実名をもあきらかにしたことは、われわれに知られている道徳と倫理のいかなる基準にてらしても正当化されず、われわれの憲法によつて保障されている、幸福を追求し獲得する不可奪の権利を直接に侵害するものである、と信ずる。これはプライヴアシイの権利と呼ぼうと、それに他の名称を与えようと、そのことは重要ではない。それは、他人により苛酷に、しかも不必要に侵害さるべきではない、憲法の保障する権利であるからである。

右の判例は、アメリカ州法下におけるものであり、そのままわが国の法源とはなりえないが、憲法の保障する幸福追求権の本質をあきらかにしたものであり、事案の近似性と相まつて、本件抗告事件の解決に対して重要なる示唆をあたえるものと信じる。

二、相手方(債務者)は、本件映画の製作意図ないし動機について、しきりに「神近さん(抗告人)を尊敬し愛するのあまり」作つたもので、人格権を侵害するつもりはなかつた、旨弁疎するようであるが、このような巧言令色は全くこれを信じるに足らず、かえつて本件映画の真意は、不当に理想化された「伊藤野枝」との対照において「正岡逸子」(神近市子)を極度に貶置することにあつたことは、そのシナリオにおける次のような表現によつて窺い知ることができる。

○永子「二十八年の短い生涯のうちに三度結婚し、その三度目は、詩人辻潤の恋妻であり二人の子供までありながら大杉栄の許に走り、ために大杉の情婦神近市子が彼を刺すという日蔭の茶屋事件を惹き起させた本人であり、平塚らいてうが主催した「青踏」の運動に一番年若い同人として加わり、さいごはその「青踏」の幕をひとりで閉じた話題の女であり、その死までの同じ十年間に七人の子供を産んだ母親でもあつたし、およそ平凡な女ならその何人分もの生命をあつという間に生き抜いたおんな、伊藤野枝、そうでしたね」(a―2)

○逸子「お金で心は買えないなんていうけど嘘よ。革命家でも、その魂だつて買えるのよ」

いうだけいうと逸子はケラケラと笑う(c―38)

○大杉「君は僕に貸し金がある! だからそんないい気な口が叩けるんだ! さあ返す! これはスパイした金じやないぞ、内務大臣の後藤から脅かして巻きあげた金だ、連中が僕らの仕事を邪魔したから、当然出してしかるべき金だ」

逸子は尻をついて後ずさりしていく。大杉執拗にやめない、金を叩き返し乍ら、しつこく追う。

大杉「さあ返す、返したぞ! さあ金だ、口づけしろ、こいつを持つてさつさと帰るんだ! 云々」(d―32)

○逸子が、長襦袢の襟元を合わせ乍ら大杉の床に入ろうとする。

大杉「なにをするんだ!」

逸子「ね、私、欲しいのよ、抱いてください」(中略)

大杉「話もつきもしないのに、うやむやにしようとする。僕は大嫌いだ、そのざまはなんです!」

逸子「いま生理なのよ、だから、抱いてくださるだけでいいのよ」

大杉「だめだ」(d―33)

三、原審の審理の公正について重大な疑いがある。

(一) 原審裁判所は、本件映画フィルムの検証をなすに先立つて、製作者たる吉田喜重監督を審尋し、フィルムの問題部分の哲学的、芸術的意味について十分の説明を求めた。相当な知的水準にある者が、このようなオリエンテーションを受けて本件映画を観覧すれば、その内容を好意的に解釈し、受止めようとする潜在心理がはたらくことは当然であり、それでは一種の先入観をもつて検証したことになる。本件で問題になつているのは「平均的観客大衆」が、この映画をどのように受止め、神近市子なる女性の過去をどう再評価するかにあるのであつて、劇評家や法律専門家がどう感得するかにあるのではない。

(二) 東大教授伊藤正己氏の参考人喚問についても疑問がある。氏はつとに、本件映画のプライバシー侵害性について消極説を表明していたのであり、また債務者側の招きによつて、公演前に本件映画を観覧する機会を与えられていたのであるから、公正な参考人としての適格性に疑問があつた。果せるかな氏は裁判所の問いに答えて、単にプライバシーの法についてのべるにとどまらず、すすんで本件映画が「公知」の事実をテーマとするが故にプライバシー侵害とならないという点についてまで、断定的にのべられた。原審がこのような偏ぱな参考人を呼ぶのであれば、プライバシー侵害性について積極説をとる学者をも併せ呼ぶべきであつた。

四、映画の媒体としての特質を人格権侵害との関連において考えるにあたつては単にその映像の鮮烈な印象や広汎な影響力を云々するだけではなく、さらにすすんで、その「不可反ぱく性」についても考慮する必要がある。今日の映画は強大な資本力によつて独占され、一たんその映像によつて人格の社会的な価値低減を受けると、一種の「切り捨て御免」的効果を生じ、被害者がこれを反ぱく弁明することは実際上不可能に近い。この意味において映画の媒体としての危険性は一応の対等的反論を許す、刊行物上の論説の危険性とは同日には論じがたいものがある。

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